≪御祭神≫
・田心姫命(たごりひめのみこと)
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・湍津姫命(たぎつひめのみこと)
・弁財天(べんざいてん)【サラスヴァティー】
福岡県と佐賀県の県境に位置する標高1,054.6mの脊振山(せふりさん)。
「境なため、國の背(境)が振れあうところ」というのがその名の最初の由来とされます。
その脊振山頂に鎮座するのが「脊振神社・上宮」
そして南南西の中腹、305号線沿いに鎮座しているのが、こちらの「下宮」です。
創建年代は不明ですが、神功皇后が三韓親征から帰国の際、無事に帰ってくることが出来たことに感謝して脊振山頂に宗像三女神をお祀りしたのがはじまりと伝えられます。
しかし冬は寒さが厳しく積雪も多いため参拝が困難なことから、上宮を遙拝する下宮が建立され、弁財天を合わせ祀ったのが「脊振神社・下宮」のはじまりです。
仏教が定着したとされる平安期には、宗像三女神と弁財天が習合(混同、同一視)され、日本六所各区肥前州佐嘉(賀)領脊振上宮弁財天と称されたそうです。
この習合の結果、山麓の里人に乙護(乙宮)さんとして親しまれるようになったといいます。
また、平安期の中頃、天台宗の僧・性空(しょうくう)はこの背振山で修行し、この頃から山岳修験の色が強くなり、最盛期には「脊振千坊」といわれました。
建久2年(1191年)宋から帰国した明庵 栄西(えいさい)が、はじめてこの地に茶の栽培を伝えたのも、航海安全の奉謝のためだったと伝わります。
南北朝期には衰退しましたが、藩主鍋島氏の崇敬を受け、各代の祈願所となり、寄進田も50町歩を超えました。元禄9年(1696年)には、鍋島綱茂(なべしまつなしげ)が石灯籠52基を寄進、さらに境内地8町、社領米15石6斗を寄進。
さらに宝永8年(1711年)には鍋島吉茂(なべしまよししげ)が山林45町2反7畝歩を永久寄進したそうです。
入口には、「日本六所弁財天 脊振神社」の社号標があり、神仏習合を色濃く漂わせています。
参道と社殿
社殿
社殿は明治7年(1874年)の佐賀戦争(佐賀の乱)により焼失、現在の社殿はそのあと再建されたものだそうです。
御本殿
境内右側にある石窟
社殿に向って、境内右側にある石窟には、弁財天のお使いといわれる白蛇が棲んでいると言われています。「はくじゃさん」と呼ばれているそうです。
明治維新の際には下宮を白蛇神社とも称したそうです。
また神仏混合の昔は、同じ境内に多聞坊東門寺という寺院がありましたが、明治政府の神仏分離によって廃寺に追い込まれ、明治7年(1874年)の佐賀戦争(佐賀の乱)の時に焼失したそうです。
境内に脊振不動明王社、観世音菩薩などがあります。
脊振神社境内案内板
【脊振神社・下宮】:佐賀県神崎市脊振町腹巻⇒[ Googleマップ ]
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