≪御祭神≫
・八幡大神(はちまんおほかみ/やはたのおほかみ)
・比賣大神(ひめおほかみ)
┗ 多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)
┗ 市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
┗ 多岐都比賣命(たきつひめのみこと)
・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
『豐後国志』によると、天武天皇白鳳9年(680年)、靭負郷(ゆきいのさと)の岩松峯(日田市天瀬町【現:鞍形尾神社付近】)に示現された八幡大神をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
白鳳九年秋。有八幡大神降格之瑞。始祭岩松峯。後又移杉原
〜白鳳九年秋、八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)の降格(おりきた)る瑞(きざし)有(あ)り。始(はじ)め岩松峯に祭(まつ)り、後(のち)に又(また)、杉原に移(うつ)りき。〜
(『豐後国志』より)
また貞観元年(859年)、「永(なが)く豊(とよくにの)前(みさき)の地(くに)を守(まも)らむ」と八幡大神の神勅があり、日田郡求来里(くくり)村の杉ヶ原の杉の梢に白幣が出現したので、村人は不思議に思い、この事柄を日田郡司に報告されました。郡司はこれを朝廷に奏し、勅裁を経て、そのところに一祠を建て、岩松峯より八幡大神を遷座し奉られました。
貞観13年(871年)初代日田郡司の大蔵永弘(おほくらのながひろ)によって、杉原宮からこの地(求来里)に遷座され、社殿が造営されて「大原八幡宮」と称されるようになったそうです。
さらに元和10年(1624年)、日田永山城主石川主殿頭忠総(いしかわとのものかみただふさ)により、現在の田島【現:大原八幡宮】に遷座されました。
その後、旧地の社殿(現在地)には、元のように八幡大神を奉斎し、「元大原神宮」と称し、元求来里一円を氏子とし祭祀を続けられてきたそうです。
享和3年(1803年)には、左殿に比賣大神、右殿に息長足姫命を勧請し、明治6年(1873年)に『元大原神社』と号すようになったそうです。
この元大原神社は、JR日田駅から東に約1.6kmの県道672号線沿いに鎮座しています。
鳥居 神橋
二番目の鳥居
拝殿
御本殿 社殿
宝篋印塔(ほうきょういんとう) 宝篋印塔案内板
他にも、求来里寺東寺にあったお寺に関係するものと考えられる供養塔の一種「求来里の笠塔婆(かさとうば)があります。
⇒大原八幡宮はこちら
【元大原神社】:大分県日田市求来里⇒[ Googleマップ ]
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コメントありがとうございます(^^)
参考になるかわかりませんが・・・
万葉集4439番の『靭負御井』は、大和國 平城京の衛門府付近にある井戸のことで、『平城京の門衛たちが靭(ゆき)を負う(装着する)ところにある御井(井戸)』ということに由来してつけられた名前だそうです(^^)
「謡曲のなかの九州王朝」面白そうな本ですね♪
機会があれば読んでみますね、情報ありがとうございます♪
コメントのご返事いただけて本当にうれしいです。私は今一冊の古代史の本を書き終えたところで、日本古代のほとんどの秘密を解き明かしたと思っています。ただ出版社の事情でまだ出版には至っていません。
源氏物語が日田で書かれたということについて、源氏物語の玉葛をよく見てください。出てくる地名、登場人物名。ここに出てくる京とは九州の中にあったと考えられないでしょうか。太宰の少弐が出てきますから、この時は太宰府が都ではありません。
時々このブログに訪問させてください。すこしずつ真実の日本の古代史を紹介させてください。
こんにちは!
コメントありがとうございます。
『源氏物語 第二十二帖 玉鬘』は筑紫の肥後國松浦郡あたりに住む玉鬘がヒロインの物語です。
特に前半、九州の地名や「少弐」が物語に出てきてもおかしくはないのでは...と思います。
しかし、歴史を違う視点から見るのもまた面白いのかもしれませんね(^^)
また、お暇があれば遊びに来てくださいね☆