≪御祭神≫
・安徳天皇(あんとくてんのう) 【水天皇大神】
寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の合戦の平家の敗北により、安徳天皇は御歳僅か八歳の幼さで、平家一門とともに壇之浦に入水崩御されました。
最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き寄せられた幼い安徳天皇は、「尼ぜ、私をどこへ連れていくのか」と問いかけると、二位尼は涙をおさえて「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに壇ノ浦の急流に身を投じたと伝わります。
安徳天皇の御遺体は発見できなかったそうですが、赤間ヶ関(下関)の紅石山麓の阿弥陀寺境内に奉葬し、建久2年(1191年)勅命により御陵上に御影堂が建立され、建礼門院御乳母の女 少将の局命阿尼を奉仕させました。これが赤間神宮の始まりです。以後、勅願寺として崇敬を受けてきました。
明治になると、神仏分離により阿弥陀寺は廃され、「天皇社」と改称されました。
天皇社は明治8年(1875年)10月7日、官幣中社に列し、地名により社号を「赤間宮」と改められ、社殿も造営されました。
昭和15年(1940年)8月1日には、官幣大社に昇格して「赤間神宮」に改称され、社殿が新たに改造されましたが、大東亜大戦(第二次大戦)により社殿等を焼失。昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工され、現在に至ります。
この赤間神宮は、下関市役所から東約600mの国道9号線沿いに、関門海峡を臨むように鎮座されています。
水天門
竜宮城を模した竜宮造の楼門。
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによるそうです。
水天門の左には太鼓楼があり、その左に安徳天皇御陵(阿弥陀寺跡)があります。
外拝殿
外拝殿・御本殿
外拝殿(大安殿)に立つと、その先は回廊に囲まれるように水がはられ、その向こうに内拝殿・祝詞殿・神殿があります。
◎【天神社】(境内社)
≪御祭神≫
・菅原道真命(すがわらのみちざねのみこと)
赤間神宮社殿の右手に鎮座しています。
◎日本西門【鎮守八幡宮】(境内社)
≪御祭神≫
・八幡大神(はちまんおほかみ)
・神功皇后(じんぐうこうごう)
御由緒板によると、貞観元年(859年)行教和尚が豊國の宇佐から京都の石清水へ御分霊を勧請される途中に、関門の風光絶景なるこの地に日本西門の守り神として創建されたのが始まりで、それ以降、鎌倉幕府を始め南北朝室町時代から江戸時代まで大内毛利両氏など多くの戦国大名の崇敬を集めたそうです。
昭和20年7月2日大東亜大戦の禍を蒙り社殿は全焼しましたが、養治小学校奉安殿を移築して仮本殿とし御神体安泰を期しましたが、氏子の熱誠によって昭和29年、同37年の二回にわたる戦災復興造営事業を中心に本殿拝殿などをめでたく竣工され現在に至ります。
また、鎮守八幡宮の右手のほうには、紅石稲荷神社と大連神社へ向かう参道があります。
紅石稲荷神社鳥居 神門
壇の浦漁釣船 「壇の浦漁釣船」由来記
◎【紅石稲荷神社】
≪御祭神≫
・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
平家一門が御幼帝 安徳天皇を奉じて西遷するに際し、皇城の鎮護たる京都伏見稲荷大明神を勧請して乗船、長門国の壇之浦に到り、紅石山の景勝の地を撰んで鎮祭されたのが始まりと伝わります。
昭和20年7月2日戦災に遭い、社殿を焼失、鎮守八幡宮の宮域内に仮殿を設けて鎮座していましたが、昭和58年秋、この地に神殿造営の工を起すと、奉賛会長大知順一はじめ氏子信者が一丸となって募財、昭和59年2月6日に竣工、西遷座ならびに奉祝大祭が厳修されたそうです。
◎【大連神社】
≪御祭神≫
・天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)
・大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)
・明治天皇(めいじてんのう)
・靖国神(やすくにのかみ)
明治39年10月1日、日露戦役終焉と共に満州國の玄関口の大連市総氏神として鎮座されたのが始まりで、昭和20年8月大東亜大戦終結するとソ連軍保護のもと、同22年3月14日御神体は神宝と共に帰国し福岡市「筥崎宮」に仮奉安されました。同28年5月に「赤間神宮」神苑に小祠を建立、やがて伊勢神宮第60回式年遷宮に際し、御祭神の由緒により古殿一棟を賜り造営事業を開始し関門の風光絶景な此の聖地に鎮座されたと云います。
境内社
こちらの社は、社号名を記録をするのを忘れてしまいました・・・。
どちらかの社に、高御産日神がお祀りされていた記憶があります。
また、赤間神宮境内の右手奥には、平家一門のお墓もあります。
その横には「芳一堂」があり、昔、赤間ヶ関阿弥陀寺(今の赤間神宮)にいた盲目の琵琶法師・芳一が平家の亡霊に取り憑かれてしまい、芳一を救うため、和尚が芳一の全身に経を書きましたが、耳に書き忘れてしまい、亡霊によって、その耳をちぎり取られたという、かの有名な「耳なし芳一」をお祀りしています。
赤間神宮案内板
また、伝説ですが、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平家の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝承地が、九州四国地方を中心に全国にあるそうです。
悲しい話なだけに、伝説のように生き延びていてほしいなぁ。。。と、個人的には思います。
【赤間神宮】:山口県下関市阿弥陀寺町4−1⇒[ Googleマップ ]
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こんにちわ!
赤間神宮は本当に竜宮城にきたかのようなお社ですね♪
たびでえ様の家系は、こてこての源氏の流れなのですね(^^)
源氏と平家・・・結果的に争う事になってしまいましたが、本当は争いをしたくなかった方々も沢山いらっしゃったと思います。
そういった御先祖様の思いや、平家の方々の思いを受け取ったのかもしれませんね。。。
これからは、悲しい歴史を繰り返さないように、争いのない世の中になるように、ひとりひとりが未来のために努力していかなければいけませんね(≧ω≦)
コメントありがとうございました!