≪御祭神≫
・健磐龍命(たけいはたつのみこと) 【阿蘇大神】・・・[神八井耳命の御子、神武天皇の御孫]
・阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)・・・[健磐龍命の妃]
・彦八井耳命(ひこやゐのみこと)【草部吉見神・國龍命】・・・[神武天皇の御子]
・比東芬q命(ひめみこのみこと)・・・[國龍神の妃]
・八井耳命(やゐみみのみこと)
・若比当ス(わかひめのみこと)・・・[彦御子神の妃]
・新彦命(にひひこのみこと)・・・[國龍神の第一の御子]
・新比当ス(にひひめのかみ)・・・[新彦神の女神]
・若彦命(わかひこのみこと)・・・[新彦神の御子・新比売神の弟神]
・彌比当ス(やひめのみこと)・・・[新彦神の妃]
・國造速瓶玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)・・・[建磐龍命の御子神]
・神渟名川耳命(かむぬなかはみみのみこと)【綏靖天皇・神沼河耳命】・・・[神武天皇の御子]
・外九座
阿蘇山の南東、高森町の南側にある冬野地区にある宮山の麓に鎮座されています。
行き方としては、国道325号線沿いにある「高森」信号から南に下り、約400m先にある高森駅(南阿蘇鉄道)前を左折、すぐ先の信号を右折して、南に下っていった県道319号線沿いにあります。
元々、宮山の中腹に鎮座していましたが、400年ほど前に現在の場所に遷座されたそうです。
御由緒によると、「健磐龍命が阿蘇國に降り国土開発の時、住むべき宮居を定めようと阿蘇山上に登り南北に向かってト矢を放ちました。その一矢は今の一の宮町(宮地)の十二の宮の地【阿蘇神社】に落ち、一矢は南のこの所の大石に当たりました。この大石は、今の御矢村の石にして寸余にわたる矢じりの跡を残すといいます。
ここに一社を建て神矢を納めて『 矢村社 』(矢村大明神)と称しました。
その後、その矢は朽ち果ててしまったため、新たに神像を奉安してこれに替え鎮祭された」と伝わります。
明治以降に現在の社号「高森阿蘇神社」に変更されたようです。
鳥居
扁額「矢村社」 拝殿
御本殿
御本殿は300年前の建築といわれています。
境内には、樹齢は約460年の杉や、樹齢は約500年の南郷桧など、大小さまざまな樹木がうっそうと茂っており荘厳な雰囲気をかもし出していましたが、その雰囲気を全然写真に収めておらず、残念です。。。(− −;)
また、健磐龍命(阿蘇大神)が宮所を定めるため放った矢が突き刺さったと云われる伝説の御矢石は、高森阿蘇神社から東に200〜300mの小道の傍にあるそうです。
御由緒
元この神祠は、この山の中腹にあったという。本来山の神の信仰に起るものであろう。
この社は矢村社又は矢村大明神と称しており現在名は明治以降のことである。
矢村社と称する由緒は「健磐龍命 阿蘇国に降り国土開発の時住むべき宮居を定めんと阿蘇山上に登り南北に向って卜矢を放つ、その一矢は今の一の宮町(宮地)なる十二の宮の地に落ち、一矢は南なるこの所の大石に当たれり、これ今の御矢村の石にして寸余にわたる矢じりの跡を残すという。
その矢朽ち果てたるにより、新たに神像を奉安してこれに替え鎭祭す」とある。
思うに本社はもと山の神に始まり農耕神として祀られこの社でその年の農凶を占う矢を射るなどの神事が行われたため起った社名ではなかろうか。
中世に於いて南郷谷で水田に恵まれた豊作の地はこの社の西方市下・津留・中郷・竹崎それに連なる白川吉田の地であったろう。
矢村社はこの地域を眼下にする景勝の地(宮山)で深い森林に覆われていたであろう。
社はモリと呼ばれ聖なる樹林はモリでありヤシロとも崇められた。またその在る処は冬野と呼ばれるがミタマノフユ(神の恩頼)にあたるか、高森の地名もこの社の山の高い森に起因するのであろう。(境内由緒掲示板より)
【高森阿蘇神社】:熊本県阿蘇郡高森町大字高森354−2⇒[ Googleマップ ]
【楽天トラベル】熊本のホテル・宿予約はこちら

熊本のホテル・宿予約は≪じゃらん≫

