日本三大下り宮のひとつ【草部吉見神社】(くさかべよしみじんじゃ)
≪御祭神≫
[一の宮]・日子八井命(ひこやゐのみこと)【國龍命・吉見神】・・・[神武天皇第一皇子]
[二の宮]・比東芬q命(ひめみこのみこと)・・・[日子八井命の妃]
[三の宮]・天彦命(あまつひこのみこと)・・・[日子八井命の御子]
[四の宮]・天比当ス(あまつひめのみこと)・・・[天彦命の妃]
[五の宮]・阿蘇都彦命(あそつひこのみこと)【健磐龍命・阿蘇大神】・・・[日子八井命の甥]
[六の宮]・阿蘇都比当ス(あそつひめのみこと)・・・[日子八井命の娘・阿蘇大神の妃]
[七の宮]・新彦命(にひひこのみこと)・・・[日子八井命の御子]
[八の宮]・彌比当ス(やひめのみこと)・・・[新彦命の妃]
[九の宮]・速瓶玉命(はやみかたまのみこと) 【國造大神】
┗・・・[阿蘇大神の御子・日子八井命の外孫]
[十の宮]・若彦命(わかひこのみこと)・・・[新彦命の御子]
[十一の宮]・新比当ス(にひひめのみこと)・・・[新彦命の娘]
[十二の宮]・彦御子命(ひこみこのみこと)・・・[速瓶玉命の御子]
草部吉見神社は、阿蘇山の南外輪山の舌状台地の中央に位置しています。
阿蘇から高千穂へぬける国道325号線を草部付近まで来ると、神社への案内があるので、そこから脇道へ入り案内に従って行くと到着します。
御祭神の日子八井命(ひこやゐのみこと)は神武天皇の第一皇子で、天皇の東征時に日向高千穂から五ヶ瀬川に沿ってこの草部の地に入られ、しばらく川走の窟(いわや)に住まわれたのち、今の草部吉見神社の吉ノ池の地に宮居を定められました。
このとき池には大蛇が棲んでいて撃ってきたので大蛇を退治し、池を干して屋根をはじめ壁も草で葺いて宮殿を建てました。
宮を定めたとき「此所社宮床」と言ったので社号を吉見といい、宮が草の壁だったのでいつしかこの地が「草部」と呼ばれるようなったといいます。また、命に斬りつけられ大蛇が血を流しながら逃げていったところを血引原(現:地引原)、最後に焼かれたところを灰原と呼ぶようなったと伝えられています。
創建は阿蘇神社に先立つこと六年と言われます。
宮居を定められたその翌年、日子八井命の弟、神八井耳命の御子である健磐龍命(たけいはたつのみこと)【阿蘇大神】が、天皇から九州鎮護の大任を命じられ阿蘇に下向して来られると迎え、請われて日子八井命の娘である阿蘇都比当ス(あそつひめのみこと)を健磐龍命の妃になされました。
この後、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担われたと伝わります。
鳥居
社殿が鳥居より下にある「下り宮」と言われる珍しい配置で、鵜戸神宮(宮崎市日南市)、貫前神社(群馬県富岡市)とともに『日本三大下り宮』のひとつに数えられています。
下り参道
拝殿
神額 拝殿
社殿は、弘治2年(1556年)に甲斐左近将監親成によって造営され、のちに痛みが激しくなったので明暦2年(1656年)に里人らによって現在の社殿に補修されたことが、明和9年(1772年)の棟札に記録が残っているそうです。
以後明治25年までに18回修理されたと伝えられていて、近年では昭和51年に大改修が行われたそうです。
御本殿
日子八井命には“日向から火の玉(乾珠)と水の玉(満珠)という二つの石製の玉をもって来た”という話もあります。
水の玉にはいつでも雨を降らせる力が、火の玉にはいつでも日照りをもたらす力があったと言われ、命はこの玉により自在に天気を操り、この地に農業を広めたと伝えられています。
また、吉見という名称も吉い水という意味からだとも言われているそうです。
社殿の右下に吉ノ池(八功徳水とも言う)と呼ばれる湧水池があります。
不老長寿の水と書かれた案内板に従って階段を降りて行くと着きます。
「不老長寿の水」案内板 御塩井(不老長寿の水)
「吉ノ池(八功徳水)」と「不老長寿の水」(右端)
吉ノ池の右の小さな橋の下から湧水が流れて池に注がれています。
また、社殿の東方約300mのところに、石の玉垣で囲まれた日子八井命の御神陵(みささき)があるそうです。
参道より鳥居
参道両脇に立ち並ぶ高い樹木
【草部吉見神社】:熊本県阿蘇郡高森町草部字宮原2175⇒[ Googleマップ ]
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