≪御祭神≫
・八幡大神(はちまんおほかみ/やはたおほかみ)
≪合祀≫
[貴船社]
・高龗神(たかおかみのかみ)
・闇龗神(くらおかみのかみ)
[北辰社]
・天之御中主大神(あめのみなかぬしのおほかみ)
・高御産巣日大神(たかみむすひのおほかみ)
・神御産巣日大神(かみむすひのおほかみ)
宇佐神宮より南西約1.5kmの小向野地域に鎮座しています。
宇佐神宮の境外摂社を『八箇社』(田笛社、鷹居瀬社【鷹居社・郡瀬社】、大根川社、酒井泉社、乙梼ミ、妻垣社、小山田社)と呼び、その一社。
また、宇佐神宮行幸八ヶ社(同上)のひとつでもあり、6年に一度、神輿が巡幸していました。
小山田神社は、八幡大神が宇佐神宮に遷宮される前の霊亀2年(716年)〜神亀2年(725年)の約10年間鎮座されていた旧社地になります。
霊亀2年(716年)、鷹居瀬社(たかゐせやしろ)【鷹居神社(たかゐじんじゃ)・郡瀬神社(ごうのせじんじゃ)】に鎮座していた八幡大神は、『この場所は路頭にあって、往還の人はあるが、敬う人はいない。此れを咎めるにはとても慰めしいことである。小山田の林に移り住みたいと願う。』という神託され、同年、大神朝臣諸男、辛嶋勝波豆米によって小山田の地に神殿が造営され、遷宮されたといいます。
元明天皇二年。靈龜二年丙辰。
此所波路頭仁志弖往還乃人無禮奈利。訦牟禮波此等甚慰志。小山田乃林仁移住世牟登願給布者。
〜元正天皇二年。靈龜二年丙辰(ひのえたつ)。
此所(このところ)は路頭(みちさき)にして往還(ゆきかへり)の人、無禮(うやまひなき)なり。訦(とが)むれば、此等(これら)甚慰(はなはだめぐ)し。小山田(をやまだ)の林(はやし)に移住(うつりすみ)せむと願給(ねがひたま)ふと。〜(『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居P社部より)
社殿
また養老3年(719年)、大隅國(現:鹿児島県東部)と日向國(宮崎県)で隼人(はやと)の襲来があった時、八幡大神は『我れ行きて降伏すべし』と隼人征伐の神託を下し、御進発されたのは、この「小山田社」からです。
・・・一。元正天皇五年。養老三年癸未。大隅。日向兩國隼人等襲來。擬打傾日本國之間。同四年甲申。公家被祈申當宮之時。神託。
我禮行而可志降伏者。
・・・〜 一。元正天皇五年。養老三年癸未。大隅(おほすみ)。日向(ひむか)の兩(ふた)つの國(くに)隼人等(はやとら)襲(おそ)ひ來(きた)り、日本國の打ち傾(かたぶ)けむと擬(おも)ふ間。同四年甲申。公家(くげ)當(この)宮(みや)を祈申(いのりまを)し被(こうむ)る時の神託。
我れ行きて降伏すべし。〜
(『八幡宇佐宮御託宣集』 小山田社部より)
その後の養老7年(723年)、隼人征伐から還御(帰還)された八幡大神は、『私が今いる小山田社の土地は狭い。私は菱形山に移りたいと願う。』という神託をされ、現在の社地である菱形山の小倉山(亀山)に遷宮されました。【現:宇佐神宮】
・・・此事之後。託宣。養老七年。
我禮今坐須留小山田社波。其地狹隘志。我禮移良牟土菱形山願給布。
〜この事(こと)の後(のち)の託宣。養老七年。
我(わ)れ今(いま)坐(いま)する小山田社(をやまだのやしろ)は、その地(ところ)狹隘(せま)し。我(われ)れ菱形山(ひしがたやま)に移(うつ)らむと願給(ねがひたま)ふ。〜
(『八幡宇佐宮御託宣集』 小山田社部より)
また、明治6年(1917年)、小向野村中の貴船神社【高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)】が合祀され、西側の参道階段前の鳥居の扁額には「貴布祢」(きふね)と記された鳥居があります。
また東側のほうにも入口があり、道路を挟んだ反対側に小さな案内板があります。
東側からの入口
【小山田神社】:大分県宇佐市大字小向野
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