≪御祭神≫
・大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしひこおしろわけのみこと) 【景行天皇(けいこうてんのう)】
・品陀和氣命(ほむだわけのみこと) 【應神天皇(おうじんてんのう)】
・息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと) 【神功皇后(じんぐうこうごう)】
・比賣大神(ひめおほかみ)
┗多紀理毘売命(たきりびめのみこと)
┗市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
┗多岐都比売命(たきつひめのみこと)
外二柱
竹田市街地から、国道442号線を西に向かい、「道の駅竹田」を過ぎた一個目の信号を右斜めに入って500mほど進んだ所にある城原郵便局前に鎮座しています。
『日本書紀 卷第七』によると、景行天皇12年(82年)10月、天皇が九州征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)に「直入縣(なほりのあがた)禰疑野(ねぎの)に住む打猿(うちざる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)」という土蜘蛛の情報を聞いて、征伐するため禰疑山(ねぎのやま)に進軍されましたが、敵の矢が雨のように打ち込まれ前進することができず、一旦城原(きばる)まで退却され、川辺で占いをされて、兵を整え禰疑野(ねぎの)にて賊を討ち滅ぼされたといいます。
後世、村人たちが、景行天皇の御西征の御徳を称え、一旦退却されて占いをされたという行宮の跡に、應神天皇2年(271年)、一祠を建立して景行天皇の御霊をお祀りされたのが「城原八幡神社」のはじまりになります。
その後の天安2年(858年)、境内の礎村の景樹の地に八幡大神御降臨の霊瑞があり、国司石川朝臣宗継により神域が広められ、社殿が造営され、八幡宮を配祀されたそうです。
(霊瑞の跡は、今も近くの宮久保の社地に「八幡大神降臨の地」の碑が建てられて残っています。)
建長年間(1250年頃)には、国主大友能直により、豊後七の宮の一として大いに修復され、末寺末社の数も多く堂寺も七十に達しましたが、天正14年(1586年)薩摩の島津義弘の軍勢が乱入した際、兵火にかかり難を産山にさけられたといいます。
慶長元年(1596年)藩主中川秀成は産山より現竹田八幡山に迎えましたが、霊験により現在の地を神域とし旧地に松を植えて宮の外苑とされたそうです。
楼門と石橋
拝殿
拝殿より御本殿
横参道
・・・復將討打猿。径度禰疑山。時賊虜之矢。横自山射之。流於官軍前如雨。天皇更返城原。而卜於水上。便勒兵、先撃八田於禰疑野而破。・・・
〜復(また)將(まさ)に打猿(うちざる)を討(う)たむと、禰疑山(ねぎのやま)に度(わた)る。時(とき)に賊虜(あた)の矢(や)、横(よこしま)に山(やま)自(よ)りこれを射(い)る。官軍(みいくさ)の前(まへ)に流(きた)ること雨(あめ)の如(ごと)し。天皇(すめらみこと)、更(さら)に城原(きばる)に返(かへ)りて、水上(かはのほとり)に卜(ましま)す。便(すなは)ち兵(つはもの)を勒(ととの)へて、先(ま)づ八田(やた)を禰疑野(ねぎの)に撃(う)ちて破(やぶ)る。〜(『日本書紀 卷第七』より)
【城原八幡神社】:大分県竹田市米納城原⇒[ Googleマップ ]
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