《 御祭神 》
・景行天皇(けいこうてんのう)【大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしひこおしろわけのみこと)】
・嵯峨天皇(さがてんのう)【神野親王(かみののみこと)】
・日本武尊(やまとたけるのみこと)【小碓命(おうすのみこと)】
長湯ダムから東に約3.6kmの所に鎮座しています。
行き方は、由布市から県道30号線(豊後街道)を南西に下り、長湯ダムのほうに入らずそのまま進みトンネルを抜けて約2.5km進んだところにある「倉橋バス停」のすぐ近くを右折して、市川に沿って西北西に1.4kmほど入ったところにあります。
景行天皇12年(82年)10月、天皇が九州征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)に「直入縣(なほりのあがた)禰疑野(ねぎの)に住む打猿(うちざる)・八田(やた)・國摩侶(くにまろ)」という土蜘蛛の情報を聞いて、征伐するため來田見邑(くたみのむら)【朽網郷】に入り、行宮(かりみや)を設けて土蜘蛛を討つための議(はかりごと)をされ賊を討滅されたといいます。
後世、村人がこの行宮の地に景行天皇の霊をお祀りしたことに始まると伝えられ、日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊を合祀し「景行宮」と称したといいます。
弘仁5年(814年)、宮処野神社の社家でもあった吉野の直入郡擬大領の膳(※1)廣雄(かしはでのひろを)の娘は、嵯峨天皇の采女(うねめ)として宮中に召されました。
承和9年(842年)7月、天皇が崩御された後、來田見郷(くたみのさと)に帰り、嵯峨天皇の恩贈の御物を現在の鎮座地の境内の玉垣の内(現:擬山陵)に鎮め奉ったといいます。
その後の仁寿3年(853年)嵯峨天皇の霊をお祀りしたことから「嵯峨宮さま」として親しまれるようになりましたが、明治4年(1871年)に「宮処野神社」と改称され現在にいたります。
また、社号にもなっている宮処野神社が鎮座する「宮処野」という小字の地名は、景行天皇が土蜘蛛を征伐する時に行宮(かりみや)が設けられたことに由来しているそうです。
宮處野 朽網郷所在之野 同天皇 爲征伐土蜘蛛之時 起行宮於此野 是以名曰宮處野
〜宮處野(みやこの)、朽網郷(きたみのさと)の野(の)にあり。同(おな)じ天皇(すめらみこと)、土蜘蛛(つちぐも)を征伐(うた)む時(とき)に、行宮(かりみや)をこの野(の)に起(た)てたまひき。これをもちて名(な)を宮處野(みやこの)と曰(い)ふ。〜
(『豐後國風土記』より)
宮処野神社(左)と景行宮跡への道(右)
参道や神社境内に生い茂るスギやケヤキ、トチノキ、タブノキなどの古木の社叢は大分県指定の天然記念物になっています。
参道階段
神門
社殿
神額「宮處野神社」
擬山陵
嵯峨天皇の恩贈の御物を鎮め奉り天皇の冥福を祈ったという擬山陵
御神木
景行宮跡の案内板
神門へ続く石階段の手前を右手に進んでいくと景行天皇が行宮(かりみや)を設けたという「景行宮跡」があります。
景行宮跡の石碑
約1900年以上前、景行天皇が土蜘蛛を討伐するためこの地に建てられたという行宮。
現在は石碑だけがたっており、石碑の周りは少し広くなっていて草が生えてるだけですが、ここに立つと遥か遠い古の香りがふと漂ってくるような気がしてきます。
(※1) 膳氏一族は684年(天武天皇13年)に朝臣(あそみ/あそん)の姓(かばね)を賜与され、以降、高橋朝臣と呼ばれるようになりました。
また、「新撰姓氏録」には683年(天武天皇12年)に膳臣を改めて高橋朝臣の氏姓を賜ったと記されているそうです。
由緒※境内案内板の()は皇紀。
第一 祭神
一、景行天皇・嵯峨天皇・日本武尊
第二 創祀
一、景行天皇の御宇十二年十月(七四二)天皇祢疑野の熊襲を征せんとして直入県來田見邑に入り現在の景行宮趾に權宮を興し賊を討滅す
一、後世邑民この行宮の地に天皇の霊を奉祀し日本武尊の霊を合祀し景行宮と稱す。豊後風土記にこの地を宮処野といふ
第三 嵯峨宮
一、弘仁五年(一四七四)社家吉野の二代直入郡擬大領膳臣廣雄の女内侍嵯峨帝の采女となり宮中に召さる。
一、承和九年七月(一五〇二)天皇崩御後内侍來田見邑に帰り嵯峨帝の恩贈の御物を当社の神域現在の擬山陵に鎮め奉り奉仕す。
一、文徳天皇の御宇仁寿三年(一五一三)内侍(大北媛)景行宮詞殿に嵯峨帝の霊を奉り奉仕す。
一、陽成天皇の御宇元慶七年(一五四三)膳臣廣雄の曽孫垣遠嵯峨宮の霊を景行詞に合詞して之より嵯峨宮と稱し大祭を行ふ。
第四 宮處野神社
一、明治維新以後当社を宮処野神社(二五三一)と改稱す。
第五 神保會
一、当社の大祭をじんぼえ又はかたげ市と呼び県下の有名祭典となる。
第六 崇敬
一、国主大友氏領主朽綱氏藩主中川氏を始め來田見郷氏子の崇敬の的と成る。縁結び農作の神と祠られる。
第七 天然記念物
一、昭和三十三年三月当社杜叢に県指定の天然記念物に指定される。
第八 重要文化財
一、昭和三十四年三月宮処野神社神保會の行事が大分県文化財無形民俗資料に選択される。(境内案内板より)
【宮処野神社】:大分県竹田市久住町大字仏原1805⇒[ Yahoo!地図 ]
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弘仁5年(814年)、宮処野神社の社家でもあった吉野の直入郡擬大領の膳(※1)廣雄(かしはでのひろお)の娘は、嵯峨天皇の采女(うねめ)として宮中に召されました。
承和9年(842年)7月、天皇が崩御された後、來田見郷(くたみのさと)に帰り、嵯峨天皇の恩贈の御物を現在の鎮座地の境内の玉垣の内(現:擬山陵)に鎮め奉ったといいます。
その後の仁寿3年(853年)嵯峨天皇の霊をお祀りしたことから「嵯峨宮さま」として親しまれるようになりましたが、明治4年(1871年)に「宮処野神社」と改称され現在にいたります。
また、社号にもなっている宮処野神社が鎮座する「宮処野」という小字の地名は、景行天皇が土蜘蛛を征伐する時に行宮(かりみや)が設けられたことに由来しているそうです。
宮處野 朽網郷所在之野 同天皇 爲征伐土蜘蛛之時 起行宮於此野 是以名曰宮處野
〜宮處野(みやこの)、朽網郷(きたみのさと)の野(の)にあり。同(おな)じ天皇(すめらみこと)、土蜘蛛(つちぐも)を征伐(うた)む時(とき)に、行宮(かりみや)をこの野(の)に起(た)てたまひき。これをもちて名(な)を宮處野(みやこの)と曰(い)ふ。〜
(『豐後國風土記』より)
宮処野神社(左)と景行宮跡への道(右)
参道や神社境内に生い茂るスギやケヤキ、トチノキ、タブノキなどの古木の社叢は大分県指定の天然記念物になっています。
参道階段
神門
社殿
神額「宮處野神社」
擬山陵
嵯峨天皇の恩贈の御物を鎮め奉り天皇の冥福を祈ったという擬山陵
御神木
景行宮跡の案内板
神門へ続く石階段の手前を右手に進んでいくと景行天皇が行宮(かりみや)を設けたという「景行宮跡」があります。
景行宮跡の石碑
約1900年以上前、景行天皇が土蜘蛛を討伐するためこの地に建てられたという行宮。
現在は石碑だけがたっており、石碑の周りは少し広くなっていて草が生えてるだけですが、ここに立つと遥か遠い古の香りがふと漂ってくるような気がしてきます。
(※1) 膳氏一族は684年(天武天皇13年)に朝臣(あそみ/あそん)の姓(かばね)を賜与され、以降、高橋朝臣と呼ばれるようになりました。
また、「新撰姓氏録」には683年(天武天皇12年)に膳臣を改めて高橋朝臣の氏姓を賜ったと記されているそうです。
由緒
第一 祭神
一、景行天皇・嵯峨天皇・日本武尊
第二 創祀
一、景行天皇の御宇十二年十月(七四二)天皇祢疑野の熊襲を征せんとして直入県來田見邑に入り現在の景行宮趾に權宮を興し賊を討滅す
一、後世邑民この行宮の地に天皇の霊を奉祀し日本武尊の霊を合祀し景行宮と稱す。豊後風土記にこの地を宮処野といふ
第三 嵯峨宮
一、弘仁五年(一四七四)社家吉野の二代直入郡擬大領膳臣廣雄の女内侍嵯峨帝の采女となり宮中に召さる。
一、承和九年七月(一五〇二)天皇崩御後内侍來田見邑に帰り嵯峨帝の恩贈の御物を当社の神域現在の擬山陵に鎮め奉り奉仕す。
一、文徳天皇の御宇仁寿三年(一五一三)内侍(大北媛)景行宮詞殿に嵯峨帝の霊を奉り奉仕す。
一、陽成天皇の御宇元慶七年(一五四三)膳臣廣雄の曽孫垣遠嵯峨宮の霊を景行詞に合詞して之より嵯峨宮と稱し大祭を行ふ。
第四 宮處野神社
一、明治維新以後当社を宮処野神社(二五三一)と改稱す。
第五 神保會
一、当社の大祭をじんぼえ又はかたげ市と呼び県下の有名祭典となる。
第六 崇敬
一、国主大友氏領主朽綱氏藩主中川氏を始め來田見郷氏子の崇敬の的と成る。縁結び農作の神と祠られる。
第七 天然記念物
一、昭和三十三年三月当社杜叢に県指定の天然記念物に指定される。
第八 重要文化財
一、昭和三十四年三月宮処野神社神保會の行事が大分県文化財無形民俗資料に選択される。(境内案内板より)
※境内案内板の()は皇紀。
【宮処野神社】:大分県竹田市久住町大字仏原1805⇒[ Yahoo!地図 ]
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情報ありがとうございました(^^)