≪御祭神≫
・八幡大神(やはたおほかみ/はちまんおほかみ)
・軻遇突智命(かぐつちのかみ) 【火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)】
・少彦名命(すくなひこなのかみ)
・伊邪那美命(いざなみのみこと)
・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと) 【天満天神(あまみつあめのかみ)】
大分から国道10号線を南下し、国道57号線との分岐から(国道10号線を)約3km進んだ所にある左手の脇道を入っていき、さらに2.5kmほど進むと、カーブしている先の左手に数件の家があり、家の横の道を(家を左手にながら)登っていくと分かれ道があります。そこを左手に進んで行くと、左手側のほうに社殿が見えてきます。
古くは「豐後國大野郡」である豊後大野市犬飼町西寒田に鎮座するこの「西寒多神社」。
『延喜式』などには・・・
豐後國大野郡 一座 大 西寒多神社 (『延喜式 卷十 神名帳』)
豐後國大野郡 西寒多神社 杵原大明神 (『大日本國々一ノ宮』祝詞)
と記載され、『豐後國一宮』は、大分市寒田(旧:豐後國大分郡)に鎮座する「西寒多神社」ではなく、この豊後大野市犬飼町西寒田(旧:豐後國大野郡)に鎮座する西寒多神社ではないかともされています。
『龜山隨筆』にも「西寒多神社は初め大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記され、また『豊後國志』には「大野郡寒田神社を西寒多神社とし、応永15年(1408年)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた」ともあります。
神額「鎭國一宮」
中世に衰退していったそうですが、江戸時代になって
臼杵藩の崇敬をうけて再興され、延享年間(1744〜
1748年)に鶴峰但馬を神職とし、文化9年(1812年)
白川神紙伯の「鎮國一宮西寒田神社」の社号をうけた
といいます。
拝殿
御本殿
「大分郡」の西寒多神社、「大野郡」の西寒多神社、どちらが『延喜式』に見える「西寒多神社」なのか?・・・は、わかりませんが、『豊後國志』がいうように「大野郡」に鎮座していた西寒多神社を「大分郡」に移したということなのかもしれませんし、元は一つだった西寒多神社を古い時代に別々にしてしまい、今の状態になった・・・ということなのかもしれません。時代の流れのなかで書物には記載されてないことも残っていないこともありますので、両方合せて一ノ宮「西寒多神社」でいいのではないかな?と思う私です。
【西寒多神社】:大分県豊後大野市犬飼町西寒田⇒[ Googleマップ ]