2010年1月18日参拝
小戸神社より続いて向ったのは、日豊本線「宮崎神宮駅」から西に約600mの位置に鎮座する【宮崎神宮】
≪主祭神≫
・神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)【神倭伊波禮毘古命】[第一代・神武天皇]
≪相殿≫
(左)・鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)[神武天皇の御父君]
(右)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)[神武天皇の御母君]
社伝によれば、第一代・神武天皇(じんむてんのう)の御孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)【熊本の阿蘇神社ご祭神】が筑紫(九州)の鎮守になられたとき、祖父のご遺徳たたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられます。
その後、第十代崇神天皇(すじんてんのう)、第十二代景行天皇(けいこうてんのう)の熊襲(くまそ)ご征討の際に社殿のご造営があり、第十六代応神天皇(おうじんてんのう)の時代に、日向国造老男命が修造鎮祭(しゅうぞうちんさい)されたと伝えられています。
歴代の領主により深く崇敬を受け、当地の地頭職にあった土持信綱(つちもちのぶつな)が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(こぐや)(現:境外摂社)から建久8年(1197年)に御遷座奉仕され、文明5年(1473年)には伊東祐国(いとうすけくに)が蓮ヶ池(現:宮崎市村角町)と下北方の領地より社領を奉献、永禄5年(1562年)伊東義祐(いとうよしすけ)が下北方及び江平(現:宮崎市江平町一帯)から領地を割いて献進し、更に天正5年(1577年)には島津義久(しまづよしひさ)が米穀や御祓料を奉献されました。
江戸時代には、延岡藩が当地を所領し、寛永21年(1644年)藩主・有馬康純(ありまやすずみ)が社殿を造営、元禄2年には、藩主・有馬清純(ありま きよすみ)が社領5石を献進、文化10年(1812)には藩主・内藤 政順(ないとう まさより)がご社殿をご造営、天保10年(1839年)にも藩主・内藤政義(ないとうまさよし)による社殿修造が行われたそうです。
明治以前は「神武天皇社」「神武天皇宮」と称されていましたが、明治6年5月 県社に列せられ「宮崎神社」と改称し、同8年8月には国幣中社に昇格、同11年5月に「宮崎宮」と改めました。その後、明治18年4月にはさらに官幣大社に昇格、大正2年7月に「宮崎神宮」と改称されました。
その後、社格に見合った相応しい社殿の造営と境内整備へと眼が向けられ、明治32年4月には、総裁に仁条基弘(にじょうもとひろ)、会長に島津忠亮(しまづただあきら)、幹事長に高木兼寛(たかぎかねひろ)とする「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、全国から寄付金を集めて境内整備を行い、明治40年9月に竣工となりました。
さらに昭和15年、紀元2600年を記念した拡大整備事業(昭和13年7月の総会において、橿原神宮に次いで全国で第2位であったといいます)が実地され、現在の境内が完成されたそうです。
(現在は昭和21年2月の神社制度の変革により社格が廃止され、神社本庁の別表神社となっています。)
初めて訪れましたが、こんな立派な神社があるとは知りませんでした
長い参道を歩きながら、今までは本の中の物語的な感覚だった第一代天皇・神武天皇が、ここにきて初めて、実感として身近に感じることのできた場所です。
訪れたときは夕方でしたが、参拝される方も多かったので、早々とご挨拶をすませ、写真を撮ろうとしたら、電池切れで2、3枚しか撮れず(T T)携帯のカメラで撮ろうとするも電地わずかで3枚しか撮れず(泣)
おまけにこのあとは、熊本の八代市に宿泊する予定だったので、ゆっくりと境内観察もする暇なく宮崎神宮をあとにしたのです(泣)
神武天皇は、宮崎県西諸県郡高原町狭野の地【佐野(さの)神社が鎮座】にお生まれになられたといわれます。
初代天皇に即位するまでは、神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)、また、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)ともいい、天照大御神から五代目の御孫にあたります。
鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)【鵜戸神宮ご祭神】の第四皇子で、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。
神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)は、生まれながらにしてご聡明で武に富み、強い意志を持っていたので御年15歳の時、皇太子に即かれ、宮崎で政治(まつりごと)をお取りになりました。しかし、当時は未だ全国統一がなされた時代ではありませんでした。
神倭伊波禮毘古命は、兄・五瀬命(いつせのみこと)と高千穂宮(宮崎県高千穂町)にいらっしゃって、なお広くこの国を治める為の相談をされ、45歳の時に東遷を決意されます。
日向の美々津(宮崎県日向市)の港から船出された神倭伊波禮毘古命は、まず豊国の宇沙(うさ/大分県宇佐市)に着いたとき、宇沙の国造祖の宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売(うさつひめ)が、宇沙の川上に足一騰(あしひとつあがり)の宮をつくって、大御饗(おほみあへ/食事)をもてなしました。
次に竺紫岡田宮(つくしのをかだのみや)に移り一年を過ごし、次に阿岐多祁理宮(あきのたけりのみや)で七年、次に吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや)で八年過ごされました。さらにその国をでて海上を進んでいると、速吸門(はやすひなと)で、亀の甲に乗って、釣りをしている国つ神と出会いました。この国つ神は海路のことをよく知っていて、命に仕えましょうと答えたので、神倭伊波禮毘古命は船に引き入れ、この者を槁根津日子(さをねつひこ)と名付けました。
そしてさらに浪速(なみはや)の渡(大阪湾)をへて、白肩津に着きます。
しかしこのとき、軍勢を整えて待ち受けていた登美能那賀須泥昆古(とみのながすねひこ)と戦い、神倭伊波禮毘古命の兄の五瀬命(いつせのみこと)が敵の矢を受け重傷をおってしまいます。
五瀬命は「私は日の神の御子であるのに日に向かって戦ったため、手傷を負ってしまった。これからは、日を背負って敵をうとう」と誓い、南から廻り進む作戦に変え、海路紀伊国から迂回して熊野へ向います。
しかし紀伊国の男之水門で、重傷だった五瀬命は、悔しさのあまり雄叫びを上げ、遂に亡くなってしまいます。
神倭伊波禮毘古命は、男之水門から、南に向かいさらに東に向かって熊野村に入ると、このとき大きな熊が見え隠れして、すぐに姿を消してしまいます。
すると、神倭伊波禮毘古命をはじめ彼の軍までも気を失って、倒れ伏してしまいました。
そこへ、訪ねてきた熊野の高倉下(たかくらじ)が一振りの横刀(たち)を命にさし上げると、神倭伊波禮毘古命は目を覚し、そして、その横刀を受け取ると、熊野の山の荒ぶる神々は自然に切り倒され、気を失っていた兵士はみな目覚めました。
そこで、神倭伊波禮毘古命が、その不思議な横刀を得た理由を尋ねると、高倉下は答えました。
「先日私は夢を見たのです。天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、建御雷神(たけみかづちのかみ)をお呼びになり、『葦原中国(あしはらなかつくに)はひどく混乱している。わが御子たちは、ご病気のようだ。あの葦原中国は、そなたが1人で服従させた国なのだから、そなたがもう一度降り服従させるがよい』と言われました。すると建御雷神は、『私がまた降らぬとも、あの国を平定した横刀【佐士布都神(さじふつのかみ)※】がここにあるので、この横刀をお降しになるのがよいでしょう』とお答えになりました。そして建御雷神は、今度は私に、『この横刀を、おまえの倉の屋根に穴をあけて、そこから落とし入れるから、おまえはその横刀を持って、天つ神の御子に献上するがよい』と言われたのです。翌朝、倉を見ると本当にその横刀があったので、献上いたしました。」と答えました。
このとき、さらに高木神の御命令により、
「天つ神の御子は、ここから奥へは入ってはならない。荒ぶる神がたいへん多いからである。いま、天から八咫烏(やたがらす)を遣わすので、その飛んでいく後ろを進むように」と告げられました。
そうして神倭伊波禮毘古命は八咫烏の先導の元、吉野川の下流に着きました。ここで鵜飼の祖先で筌(うけ/竹を編んで筒状にした魚獲りの道具の一種)をつくって魚を獲っていた国つ神の贄持之子(にえもつのこ)と出会います。更に少し進むと、光る井戸の中から吉野の首(おびと)の祖で尻尾のある国つ神の井氷鹿(ゐぬか)と出会います。
そこから吉野の山に入ると、石を押しのけて出てきた尾の生えた人に出会いました。吉野の国巣の祖で国つ神の石押分之子(いわおしわくのこ)で、天つ神さまがおいでになると聞いて迎えに来られたといいます。
そして、その吉野の地からさらに荒い山を踏み越え、地を穿って宇陀(奈良県宇陀郡)に進みました。
宇陀では、土地の豪族、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という二人の兄弟がいました。
そこで、まず八咫烏をお遣わしになって、二人に「いま、天つ神の御子がこの地にいらっしゃろうとしている。おまえたちは、御子にお仕えするか」と尋ねさせました。兄宇迦詐斯は聞くなり、鳴鏑(なりかぶら)すなわち音のする矢を射て使いを追い返しました。
兄宇迦斯は「神倭伊波禮毘古命の軍を迎え撃とう」といって軍を集めましたがうまくいかず、そこでいったん仕えると偽って、大きな御殿をつくり、その中に仕掛けを作って騙し打つことにしました。これを知った弟宇迦斯は神倭伊波禮毘古命を迎えに参上し、兄宇迦斯の罠を密告します。
それで、大伴連(おおとものむらじ)らの祖の道臣命(みちのおみのみこと)と、久米直(くめのあたい)らの祖の大久米命(おおくめのみこと)の二人が、兄宇迦斯を呼んで罵って、「お仕えするためにつくったという御殿には、おまえがまず入り忠誠を示せ」といって、すぐに横刀(たち)の柄を握り、矛を振り矢をつがえて、御殿の中に追いやると、兄宇迦斯は自分がつくった仕掛けにかかって、押しつぶされて死んでしまいました。
そして、その宇陀の地からまた進み、忍坂の大きな洞穴に着いたとき、尻尾の生えた土雲(つちくも)の多くの乱暴者たちが、その洞穴にいて、待ち構えていました。そこで、神倭伊波禮毘古命は乱暴者たちに多くの接待人をつけてご馳走を与えましたが、このとき接待人には一人ずつ刀をもたせて、そして、歌を合図にいっせいに斬りかかれと命じておきました。
そして、
《忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎い 石椎い待ち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子らが 頭椎い 石椎い待ち 今撃たば宜らし》
この歌を合図に刀が抜かれ、土雲らはことごとく打ち殺されてしまいます。
この後も反抗する国つ神を次々に平定された後に、高天原より邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天降りになり、宝として持っていた、天つ神の御印を差し上げて、神倭伊波禮毘古命にお仕えすることになりました。
このように、荒ぶる神たちをすっかり平定して、従わない者たちを退け、追い払われて、神倭伊波禮毘古命は、畝傍の白檮原宮(かしはらのみや/橿原宮)で天下をお治めになりました。
【古事記参考】
※【佐士布都神(さじふつのかみ)】:またの名を甕布都神(みかふつのかみ)、またの名を布都御魂(ふつみたま)といい、いまは、石上神宮(いそのかみじんぐう)にあります。
【宮崎神宮】
〒880-0053
宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1⇒[ 地図 ]
TEL:0985-27-4004
FAX:0985-27-4030
宮崎神宮公式ウェブサイト⇒http://miyazakijingu.jp/
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